「都民の日を狙い撃ち!無料で巡る東京都有名4庭園の旅」練習会報告
都民の日を狙い撃ち!無料で巡る東京都有名4庭園の旅
今年2023年の「都民の日(10月1日)」は、なんと「日曜日」。品走の練習会とかぶっているではありませんか。
「都民の日」は色々な都営の施設が無料で入場できる特典が満載です。あの上野動物園も無料開放されます。
そこで今回の練習会は「無料で都営の庭園をめぐる旅」と題して実施しました。
都営の庭園は色々ありますが、今回選んだのは10km圏内で回れる4庭園を選抜。
「上中里駅→旧古河庭園→六義園→小石川後楽園→旧岩崎邸庭園→御徒町駅」をめぐる約8kmのコースです。庭園観光がメインとなるので走る時間より歩いている時間のほうがはるかに長い練習会となりましたね。
スタートの「上中里駅」で一枚。
「都民の日10/1」無料入園日です! by 東京都公益財団法人東京都公園協会
まずは「旧古河庭園」からスタート。
開園面積:30,780.86平方メートル(平成27年7月1日現在)
武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。
この庭園はもと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅でしたが、次男が古河家の養子になったのち、古河家の所有となりました。尚、この当時の建物は現存していません。
現在の洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア・コンドル博士(1852~1920)です。博士は当園以外にも、旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計し、我が国の建築界に多大な貢献をしました。
日本庭園の作庭者は、京都の庭師・七代目植治こと小川治兵衛(1860~1933)の手によるものであり、彼は当園以外にも、山縣有朋の京都別邸である無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園、南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭しました。戦後、国へ所有権が移りましたが、地元の要望などを取り入れて、東京都が国から無償で借り受け、一般公開されました。
数少ない大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在で、伝統的な手法と近代的な技術の融和により、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な事例となっています。また、現存する近代の庭園の中でも、極めて良好に保存されている数少ない事例として重要であることから、平成18年1月26日に文化財保護法により国の名勝指定を受けました。
上中里駅から徒歩5分ほどです。
池の緑が濃いですね。
ドラマや映画でよく使われる洋館。
シンメトリー風でお城のような作りですね。
洋館の前で一枚。
洋館前の庭園も有名です。時期がよければバラが一面に咲き乱れています。
お次は「六義園」に到着。
開園面積:87,809.41平方メートル(平成27年7月1日現在)
六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられておりました。元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳澤吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。
六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園です。
庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来します。庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州(現在の和歌山県)和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されています。
明治時代に入り、岩崎彌太郎氏(三菱創設者)の所有となった当園は、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開されることになりました。昭和28年3月31日に国の特別名勝に指定されました。
入口は看板ではなく石碑ですね。
「六義園」は「旧古河庭園」の約2.5倍の広さがありますので散策には十分な広さです。
池も「旧古河庭園」よりはるかに大きいです。
撮影ポイントで一枚。
ここにも「渡月橋」が。
つぎの「小石川庭園」を目指す途中にお目にかかった「長嶋ゲート」。
後楽園ドームにこんなゲートがあるなんて初めてしりました。
東京ドームの横にある「小石川後楽園」に到着
開園面積:70,847.17平方メートル(平成27年7月1日現在)
小石川後楽園は、江戸時代初期の寛永6年(1629年)に水戸徳川家初代藩主・徳川頼房(よりふさ)が江戸の中屋敷(明暦の大火後に上屋敷となる)に築造し、2代藩主・光圀の修治により完成した江戸の大名庭園として現存する最古の庭園です。
小石川台地の南端に位置する起伏に富んだ地形と自然林を活かし、日本各地の景勝を模した創設者頼房の庭造りを受け継ぎ、添景として光圀の代に儒教的思想を反映させた中国趣味が取り入れられました。日本と中国の名所や古典になぞらえた見所を配した「後楽園」は、造園当時から、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。
園内は、「大泉水」の「海」の「景」を中心に、これをめぐる周囲に「山」「川」「田園(村里)」などの「景」が連環して配置されており、変化に富んだ風景が展開する「回遊式築山泉水庭園」です。
池を中心にした回遊式庭園としての庭園形式は、江戸の大名庭園の先駆けとして後に造られる大名庭園にも大きな影響を与えました。
中央に位置する「大泉水」をはじめ園内の多くの泉水は、江戸時代には、神田上水によってまかなわれていました。武家屋敷の邸内を上水が流れる例はまれで、現在は「神田上水跡」にその痕跡を見ることができます。「後楽園」の名称は、光圀が隣国明の儒学者で日本に亡命していた朱舜水(しゅしゅんすい)の意見を取り入れ、宋の笵仲淹(はんちゅうえん)の『岳陽楼記(がくようろうき)』中の「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名づけられました。これは為政者の心得を説くもので、光圀も自らの政治的信条としました。
なお、当園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝として国の文化財に指定されています。特別史跡と特別名勝の重複指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮恩賜庭園と当園の二つだけです。全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけです。
入口前で一枚。
「六義園」より若干狭いですが、こちらの「小石川後楽園」のほうがアップダウンが多いです。
「山」「川」「田園(村里)」などの「景」が連環して配置されており、変化に富んだ風景が展開する「回遊式築山泉水庭園」とありましたので、結構楽しるのでオススメです。今回の4庭園の中では自分的には一番よかった庭園でした。
池の蓮の葉が見事です。
田園風景を思わせる「稲作」。
関東大震災まではお堂が建っていたそうです。
ちょっとした山が数か所あり、いい感じで刺激をくれます。
最後の「旧岩崎庭園」の途中で立ち寄った「神田明神」。
日曜劇場「VIVANT」でおなじみの場所ですよね。最終回のラストシーンは続編を匂わせる終わり方で興味深いですね。
最後の4庭園目の「旧岩崎邸庭園」に到着。
開園面積:20,708.07平方メートル(令和5年6月1日現在)
旧岩崎邸庭園は1896年(明治29年)に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として造てられました。往時は約1万5,000坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいました。現在は3分の1の敷地となり、現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟です。木造2階建・地下室付きの洋館は、鹿鳴館の建築家として有名な英国人ジョサイア・コンドルの設計で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。
別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の木造建築で、洋館から地下道でつながっていま す。洋館と結合された書院造りの和館は当時の名棟梁大河喜十郎の手によるものと言われています。床の間や襖には、明治を代表する日本画家・橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁画などが残っています。現存する大広間を中心に 巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。
大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。
昭和27年(1952)年に国有財産となりました。戦後GHQに接収され、返還後、最高裁判所司法研修所として使用(~1970年)されました。昭和36年(1961年)に洋館と撞球室が重要文化財に指定。昭和44年(1969年)に和館大広間は洋館東脇にある袖塀とともに、平成11年(1999年)に煉瓦塀を含めた敷地全体と実測図がそれぞれ重要文化財に指定されました。
広さは4庭園の中で一番小さいですが、「洋館」「和館」「ビリヤード場」もあり建物が素晴らしいです。
こちらは正面入り口前での一枚。
こちらは庭に面した裏側です。
大きな灯籠が鎮座します。
こちらは庭の一角に建てられたビリヤード場の内部。
旧岩崎邸庭園は庭よりも建物を見るのがオススメですね。
今回の銭湯は何度も訪れている「燕湯」。昔ながらの番台があり昭和を感じさせる銭湯です。
銭湯後は「肉バル&ビヤホール MeatBeer上野店」でガッツリお肉とビールをいただきました。
距離も走っていなので完全に「カロリーオーバー」確定です。
参加された皆様、お疲れ様でした。