「JIN-仁 思い出の地を訪ねて」練習会報告

「JIN-仁」の練習会に参加された7名の皆さんお疲れ様でした。

 

コロナ禍の中、医療従事者の方々のご尽力には頭が下がる思いです。思い起こせば今から12年前、このような献身的な努力をされ、人々におおきな感動を与えた一つのドラマがありました。TBS日曜劇場で放映された「JIN-仁」です。

今回の練習会では、このドラマ「JIN―仁」の思い出の地を巡ってみました。品走では過去にも一度巡ったコースではありますが、古い会員の方も記憶が薄れてしまった様ですね。

下記に今日のコースを纏めてみました。

今回のコースです

 ①伝馬町牢屋敷跡 

脚気の疑いのある皇女和宮に仁の考案した「あんドーナツ」を献上することになった。ところが、それを食した和宮は突然具合が悪くなり吐いてしまう。仁の胃洗浄にて事なきを得るが、仁は毒を盛ったとされ、伝馬町の牢屋敷に投獄されてしまった。

仁は本来、医師であるため、「揚り屋」に入るはずだったが、大部屋に入れられて苦労する。

 

伝馬町牢屋敷跡地で記念写真

 

②お玉が池種痘所記念碑

仁の医術を広めることに協力した伊藤玄朴ら江戸の蘭学者たちが資金を出し合って1858年に設立した施設。設立後、半年で焼けてしまい、その後下谷泉橋へ移転した。(現在、下谷泉橋の地名は無く、蔵前通りの上野警察署台東交番付近が移転先として案内がたっている。)

③繁栄お玉が池大明神

この辺りに昔、お玉が池という池があった。江戸の初めには不忍池よりも大きかったと言われてますが、徐々に埋め立てられ姿を消したと伝わる。最初、桜が池と呼ばれたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が縁談問題で悩んだ末、池に身を投げたとの故事から、お玉が池と呼ばれるようになったと伝承されている。

④玄武館道場跡

仁が勝海舟の紹介で知り合った男、坂本龍馬が江戸で通っていた、北辰一刀流の道場跡。千葉周作の弟、千葉定吉が道場主。玄武館は当時、江戸の三大道場と呼ばれ旺盛を極めた。

・三大道場 技の「玄武館」、品格の「士学館」、力の「練兵館」と言われる。

⑤昌平坂 

コミック版のシーンで登場。日本橋で医療器具や薬品を買って帰宅が遅くなった仁は、昌平坂付近で辻きりに襲われる。当時は、刀の切れ味を試すためや、金品強奪のために辻斬りが横行していた。

⑥お茶の水渓谷 

物語の始まり、自分が手術した奇妙な男を追いかけて、誤って病院の階段から落ちた仁は、江戸時代にタイムスリップしてしまう。その場所がこのお茶の水渓谷。ここで仁は武士たちの斬り合いに遭遇し、傷ついた橘恭太郎を現代医学の力で救うことになる。

お茶の水渓谷は江戸の初期に人力で掘削された人工の渓谷。

 

⑦お茶の水

慶長の昔、この辺り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時寺の庭より良い水がわき出るので、将軍忠公に差し上げたところお茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になりこの寺がお茶の水高林寺と呼ばれ、この辺りをお茶の水と云うようになった。

⑧元町公園

現代に戻ってきた仁は周りの様子が少しずつ代わっている事に気づく。たとえば自分が江戸で残してきた実績が、仁友堂の他のメンバーだけの実績と記録されていた等。そんなある日、かつて橘家のあった場所で橘医院という小さな医院を見つる。そこで未来(かっての仁の恋人。仁が彼女の脳腫瘍を手術したが意識が戻らなくなっていた。現在に戻った時には、未来の存在は無い。)に似た女性(咲きの子孫)から、その医院が咲が開いた医院だったことを知らされ、一通の手紙を渡される。それは、咲からの仁に宛てた手紙だった。その手紙をこの公園のベンチで読んだ。

⑨樹木谷坂

橘栄、恭太郎、咲、の住む屋敷があったとされる場所。原作では橘家の住所は、「湯島4丁目裏通り樹木谷」とある。仁は恭太郎を救った縁でここに居候することになる。又ここで咲と出会う。

⑩西洋医学所&伊東玄朴邸跡地

かって、お玉が池にあった種痘所が火災にあって、こちらに移転。その後、西洋医学所と名を変えた。伊東玄朴邸は西洋医学所に隣接していました。

⑪医学館跡

西洋医学所とライバル関係にあった漢方医(本道)の総本山。ドラマでは、奥医師・多紀元孝と仁がどちらの場所で会見するかでもめる話が出てくる。

現在は跡地がマンションの工事中で、掲示物が見学できません。前回の写真を掲示しました。

⑫ヤマサ醤油・東京支社(現在、立て替え中) 

仁は、大やけどを負った茶屋の娘の手術を請け負うが、それには大量のペニシリンが必要。ところがペニシリン製造所から出火してしまい、ペニシリンを失ってしまう。そんな矢先、緒方洪庵の紹介で、濵口儀兵衛を紹介される。彼が提供してくれた蔵でペニシリンの製造が可能となり製造を再開する。この濱口儀兵衛は現在のヤマサ醤油の当主だった。実際の儀兵衛も消失した種痘所再建のために300両を寄付するなど、医学を積極的に支援した人物だった。

⑬西郷隆盛邸跡 

仁は、何者かに襲われ瀕死の重傷を負った佐久間象山を救うため京に登る。その後、新撰組につれさらわれて、西郷隆盛の虫垂炎を治すことになる。その西郷が江戸にいたときに住んでいた住居跡。ここは、西郷が征韓論で負け九州に引き上げたときにたたまれた。現在は、日本橋小学校・幼稚園となっている。

 

偶然かどうかは不明ですが、西郷邸跡の隣に、こんなレストランも・・・・

(参考)完結編・最終話の咲さんの手紙が印象深いので全文を掲載させてもらいます。

咲の手紙

○○先生へ

先生、お元気でいらっしゃいますでしょうか。

おかしな書き出しでありますことを深くお詫び申し上げます。

実は、感染症から一命を取り留めた後どうしても先生の名が思い出せず

先生方に確かめたところ、仁友堂にそのような先生はおいでにならず、ここは私たちがおこした治療所だと言われました。

何かがおかしい。そう思いながらも私も次第にまたそのように思うようになりました

夢でも見ていたのであろうと

なれど、ある日の事

見た事もない奇妙な銅の丸い板を見つけたのです。

その板を見ているうちに、私はおぼろげに思い出しました。

ここには先生と呼ばれたお方がいたことを

そのお方は「揚げ出し豆腐」がお好きであったこと。

涙もろいお方であったこと。

神のごとき手を持ち、なれど決して神などではなく。

迷い傷つき、お心を砕かれひたすら懸命に治療に当たられる「仁」をお持ちの人であった事を

私はそのお方に、この世で一番美しい夕日を頂きましたことを思い出しました。

もう名も、お顔も思い出せぬそのお方に恋をしておりましたことを

なれど、きっとこのままでは私はいつか全てを忘れてしまう

この涙の訳までも失ってしまう。

何故か耳に残っている「修正力」という言葉

私はこの思い出を無きものとされてしまうような気がしました。

ならばと、筆を執った次第にございます。

私がこの出来事に、あらがうすべは一つ、このおもいを記すことにございます。

○○先生、改めてここに書き留めさせていただきます。

橘咲は、先生をお慕い申しておりました。

 

橘咲

 

仁先生

「私もですよ、咲さん。私もお慕い申しておりました」

「JIN-仁 思い出の地を訪ねて」練習会報告” に対して3件のコメントがあります。

  1. キンニ君 より:

    JINを思い出しながらのランを楽しませていただきました。
    Hiroさんの観光ガイド、最高でした!
    流石です!

    1. 匿名 より:

      キンニ君、コメント有難うございます。初めての案内から8年程たってしまいました。ですから案内をするにしても、一から勉強をし直しでした。

      又、こう言う歴史的?場所を訪ねるコースを開催したいと思います。

      ところで偶然、初めて仁ーJIN」のコースを実施した時の画像が、サイトに載っていました。
      http://smilerun3.web.fc2.com/2012/act1206.html#item1を見てみて下さい。

      1. キンニ君 より:

        前回は19名も参加していたんですね。ビックリです。
        皆さん、お若いですね〜。8年前ですか〜。
        いい思い出ですね。

        Hiroさんの歴史コース、是非お願いします!

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